未来の自分は、こんな日記をつけていた。


2006年3月

2006年4月 2006年5月

2006年3月


社内で話題になったと言われた


今でもハッキリおぼえてる、社内で話題になったと言われたことを。

それは、2006年3月23日の夕方。

当時、雨後の竹の子のごとく乱発していたコーヒーチェーン店で、私は仕事の打ち合わせ。ついぞ飲めなかったのに、いつの間にかブラックを欲するようになっていた喉を、ブレンドのショートが潤してくれたっけ。

「ぼく、東京に行くことにしたんです」

今いただいてる仕事はやり遂げます、でもそれ以降はすみません。恐る恐る切り出した、トーンはまるで男女の別れ話。

「あら。でも私も最近は週に何度も東京に行き来してまして、こっちと向こうの境が分からないくらい。ですので、これからもお仕事お願いします」

ほんとですかと、顔が綻んだ。

「実は前回の仕事で松岡さんが、社内で話題になりまして。アレをよくあそこまで書けたって、ちょっとした有名人ですよ」

保険もない、上司もいない、ボーナスなんて異次元の世界。風来坊の私にあったのは、人とのつながりだけ。自分を買ってくれる人に応えよう、自分を応援してくれる人に報いよう。舌を火傷しそうになったコーヒー以上に、あの日は目頭が熱くなったんだ。

 


 

火事になりかけた


今でもハッキリおぼえてる、危うく家が火事になりかけたことを。

それは、2006年3月24日の深夜。

今では懐かしいが、かつてパソコンと呼ばれた機械でアニメを観ていた私。確か『シティーハンター』だったように思う。都会に巣食うワルどもを美人の依頼でこらしめる、スイーパー(始末屋)の物語だ。

主人公・冴羽リョウのコルト・パイソン357が、ネオン越しに愛の光線を放つ。銃口からは、焦げた匂い。まるで画面を観ているこちらまで伝わってくるかのよう。

ん、本当に、焦げくさい。

しまった、コーヒーを飲もうとお湯を沸かしていたところだった。

アニメに見入ること数十分、カップ1杯分の水を沸騰しきってなお燃えたぎるガスコンロ。いわゆる空焚きだ。慌てて火を消すも、お鍋の柄からは天にも昇る一本の煙。鼻をつく異臭。火傷を冷やしてあげようと蛇口の水を鍋にぶっかけると、聞いたことのない「ぼしゅっ」というサウンド。

あと数分、気付くのが遅ければ、と思うとゾッとしたっけ。

ガスコンロにおのれの命を始末されてはたまらない。人生、まだまだこれからだ。あの日は相変わらずのうっかり癖を憂いつつ、部屋が焦げくさいまま眠りについたんだ。

 



締まりのない身体を鏡で見た


今でもハッキリおぼえてる、おのれの裸を鏡で見たことを。

それは、2006年3月25日の昼下がり。

友人と「美味いもんでも食いに行こう」とチャットで画策。季節は桜が一分咲き。温かくなり始めた、しかし夜はまだ肌寒い、見極めの難しい時期。さあ、何を着よう。

暑くないように、寒くないように、それでいて、ちょっとオシャレに。候補となる服をクローゼットから取り出しては、姿見の前で試着。ああだこうだと繰り返すうち、私は衝撃の事実に気が付いた。

「身体が団子のようだ」

今でこそ「肥満は不満」の戒めで日々鍛錬を怠っていないが、当時はおのれのボディに無頓着。確かバイク転倒事故で右膝を負傷し、やむなく運動不足だったことは事実。しかしそれを差っ引いても目に毒な醜い裸はそう、まさにドラえもん体型。色白の肌以上に顔面を蒼白させたっけ。

夜、友人と豆腐料理を堪能する。田楽の柔らかさが、締まりのないおのれの肉体を連想させた。このままではいけない、そう思いつつ、空腹に耐えられない深夜。 あの日は卵かけご飯をがっぷり食べて、また少しドラえもん体型の精度を高めてしまったんだ。

 



西宮パーティに招待された


今でもハッキリおぼえてる、西宮パーティにお呼ばれしたことを。

それは、2006年3月26日の夕方。

当時「西宮に映画館をつくろう」なる活動をしていた私は、出演した番組を通じて知り合ったラジオDJさんのホームパーティに招待された。彼を軸に、西宮に根を下ろす「面白そうな人」が集結することとなった。

マジシャン、鞄職人、イラストレーター、グラフィックデザイナー、ガラス職人、バンドマン、編集者。色んな肩書きを持つ人が集ったっけ。

どの業界でもそうだが、同業種の横つながりはよくある。「狭い世界」と自嘲する人も多い。しかし西宮という地縁を活かしたつながりは、ネットワークを縦横にしてくれた。良くも悪くも関西では「地縁」が重視されたものだ。

この日が初対面だったマジシャンの彼に「もうすぐ上京するんですよ」と語りかけると、優しい眼差しを向けられた。

「27歳? 東京に行くにはちょうどいい年齢やね」

目の前にあるトランプの箱を小さくしたり、カードをひっくり返すだけで絵柄を変化させたり。人を化かすことが生業である彼の、真面目な受け答え。何気ない一言だったけど、少し勇気が湧いたんだ。

 



師匠からの巣立ちを告げた


今でもハッキリおぼえてる、師匠に東京行きを告げたことを。

それは、2006年3月28日の夕方。

当時の私には、師匠と呼べる存在が2人いた。1人は広告代理店のコピーライター。学生時分の頃から「左脳の使い方」を教育してくれた人だ。テクニック云々よりも「そもそも」を突き詰める姿勢の大切さを一番近いところで学ばせてくれた。

そしてもう1人はデザイナー出身の商社系プロデューサー。プロジェクトを共にする中で「右脳の使い方」を教育してくれた人だ。常に実践、発案企画の最前線。直感で、良いものは良い面白いものは面白い。己に素直な「感覚」の大切さを学ばせてくれた。

あの日、上京する旨を伝えたのは、後者の師匠。

何せフリーランスの仕事を始めるきっかけをくれ、以後ずっと仕事と期待を与え続けてくれた恩人。言うに言えず、いたずらに日々が過ぎた中での、意を決した告白だったっけ。

「東京に、行くことに、しました」

事実上の巣立ち。

会話の節々に覗いた句読点は、それまで散々お世話になった感謝の気持ち、進行中のプロジェクトに迷惑をかけたくない気持ち、様々な思いが交差点で行き交っていたためだ。

上京してからも、私には師匠と呼べる存在が数多く生まれた。しかし職業人としてのベースを基礎付けたという意味で、この2人の息遣いは、以後もずっと根強かったんだ。

 



ドッペルゲンガーを発見した


今でもハッキリおぼえてる、ドッペルゲンガーを発見したことを。

それは、2006年3月29日の正午。

友人から「双子?」とメールをもらい、真相を確かめるべく向かった先は一軒のコンビニ。関西圏で発売されていた雑誌『ハナコ・ウェスト』の「関西いい男カタログ」なる特集でイケメン(当時の言葉で格好いい男)達が紹介されており、どうやら私のそっくりさんが掲載されているとのことだった。

暗に私が「イケメン」であることをほのめかすレトリックのようだが、そんなことはどうでもよろしい。問題なのは、その瓜二つぶりだ。

顔、似てる。つくりからして似てる。凛々しい眉、離れ気味な両目、勢いのある髪、パーツパーツが見紛うかのごとし。

さらに驚くべきは、そのプロフィール。年齢、学年、出身大学、似てると言われる有名人(サッカー選手の城彰二)、好きな女性タレント(女優の菅野美穂)とここまですべて私と同じ。職業も映画配給会社の宣伝マンとあり、フリーのコピーライター兼映画上映団体主宰者であった私に酷似してたっけ。

ドッペルゲンガーと鉢合わせした者は、その命を失うという。それでも私は、まるで生き別れた双子のような容姿と経歴を持つこの人物に、素直に「会ってみたい」と思ったんだ。

 



父が56歳になった


今でもハッキリおぼえてる、父が56回目の誕生日を迎えたことを。

それは、2006年3月30日。

長年勤め上げた大手企業を早期退職し、技術者ゆえに技能を活かした転職先をすんなり決めるも、あえなく会社が倒産してしまった波乱の時期。 冗談のような「父さんの会社が倒産」。

父は、私に初めて弱音を漏らしていた。

「ずっとサラリーマンをやってきたから、どうすればいいか分からん」

自ら営業し、技術も活かす。そんな「半フリーランス状態」で倒産後の仕事を開始していたが、確か「見積もりを取ろうにも相場が分からない」といった類の相談だったっけ。

そんな不安の日々の中、さらに息子が遠方に旅立つという。その心中たるや、不安の塊が圧し掛かっていたに違いない。56歳を迎えた男の気持ちが、今なら分からなくもない。

逆に言えば、当時の私は本当に、まだまだ子供だったんだ。

 



『キューポラのある街』を観た


今でもハッキリおぼえてる、尾道で映画『キューポラのある街』を観たことを。

それは、2006年3月31日の夜。

「尾道に映画館をつくる会」のみなさんが地元尾道で週末映画館なる上映イベントを開催されており、当時住んでいた西宮から鈍行で4時間かけて訪れたんだっけ。

『キューポラのある街』は、鋳物の街・埼玉県川口市を舞台とした社会派青春映画。そのファンをサユリストと呼んだ吉永小百合18歳、ブルーリボン賞主演女優賞受賞作である。

キューポラとは、鋳物を溶かす炉のこと。職人の時代からオートメーションの時代に移る転換期(昭和30年代)において、川口市に居並んだキューポラはひとつの時代の象徴であった。

ランドマークは、街を街たらしめる。そこに市民の息吹を連想させる何かがあるからだ。

役人の名誉欲がかきたてられた「ランドマーク風、税金の無駄遣い建築」がいつの世も建造され続ける中で、私はどれだけ「目に見えぬランドマーク」を創造してこれただろうか。どれだけ街に生きる市民の心に何がしのシルエットを描けてこれただろうか。

私が棺に入った後で、教えておくれ。

2006年4月


甲子園で高校野球を観戦した


今でもハッキリおぼえてる、甲子園で春のセンバツ準決勝を観戦したことを。

それは、2006年4月1日の昼。

上京間近で、関西エリアの物見遊山に精を出していたあの頃。近場ほど足を運ばなくなる法則に従い、そういえば甲子園は縁遠く。西宮に住んでるうちに高校野球は見ておかなければと、優勝候補の一角PL学園の試合を観戦しに行ったんだっけ。

特に阪神ファンでもなかったが、離れてみると甲子園が、関西が恋しくなったことに気付いた。怒鳴り合いも殴り合いも辞さない、スポーツの勝敗ひとつで一喜一憂する独特の熱気。失って、初めて分かる大切さよ。

高校野球は、加えて青春が詰まった場。勝敗以上に、人生の中で解き放つある種のエネルギーが凝縮されている。プレーひとつひとつがおのれの、そして観る者の胸に刻み込むインパクトを持っている。

関西を離れた悲しさのひとつは、人生の縮図とも言うべき甲子園に気軽に触れられなくなったことだったんだ。



iPodを引き当てた


今でもハッキリおぼえてる、先輩の結婚式でiPodを引き当てたことを。

それは、2006年4月2日の夜。

iPodとは、当時を象徴する革命的アイテムのひとつ。ポッドに貯蔵する感覚で音楽を詰め込み、必要に応じて耳に流し込む装置。それは一見「音楽の大量消費」のように思えたが、曲があふれるからこそ聴きたいもの を厳選していく「量から質」への転換を促した。

話を戻して、結婚式。2次会だったと思う。当時は猫も杓子も「2次会でビンゴ」であり、特賞に目玉商品が用意されることも少なくなかった。そこで私は、参加者が喉から欲しがっていた景品を手に入れてしまった。

「どうしよう、当たってしまった」

素直に喜べない私。それもそのはず、クセのある性格が災いして途中で脱退したサークルの、先輩の結婚式。当選するに相応しい人物は、他に山ほどいたはずだ。

さすがにこのときばかりは「当たってくれるな」と心から願っていた。逆に言うと、普段はクジやビンゴで当てる気満々だったっけ。

求めるな、されば与えられん。

世の中、うまくできている。あの頃から私は「無欲」であることの大切さを実感したんだ。

 



家探しに夢中になった


今でもハッキリおぼえてる、家探しに夢中になったことを。

それは、2006年4月4日の深夜。

翌月の上京を控えた中で、まだ新居を決めていたなかった私。引っ越しシーズンが過ぎてから、と微塵も焦りはなかったが、逸る気持ちはあった。高揚していたとも言える。

新居探しにあたっては、友人のアドバイスもあり、まずは最寄駅をピンポイントで決めることに。正直、東京だったらどこでも良かったのだが、それでは選択肢が多すぎる。ある程度絞った方が紹介もされやすかったっけ。

私が設定した新居探しの主なポイントは、次の点だ。

・文化的な街であること(語れる街であること)
・活気のある街であること(≠やかましい)
・都心にそこそこ近いこと(フットワークを軽くする)
・災害に強いこと(強い地盤、鉄筋構造、狭くない路地)
・ロフト付であること(天井が高く、ベッドも不要)

その後、私がどこに移住したかはご存知の通り。

新しい住まいを探す過程は、気分を昂らせる。そして数ある中からのチョイスが正しかったと確信したとき、体内の活力が増幅された気になったんだ。



組織がリセットした


今でもハッキリおぼえてる、ひとつの組織がリセットしたことを。

それは、2006年4月5日の夜。

とある方の紹介で、参加するようになっていたひとつの会合。そこには様々な立場の人たちがひとつの目的のもと集っていた。とはいえ、当初は目的そのものが漠然としており、立場の違いゆえの議論が喧しかったっけ。

男子大学生が吠えていたのを思い出す。「そもそも論」ばかり投げかけて、話は一向に進まない。聞いている側は「で?」と返さざるを得ない、苦々しい状況。

しかし組織が一回りして成長するためには、そういう「汚れ役」的な立ち回りをする人物の登場も不可欠だ。彼自身によい思い出は残されていないだろうが、組織全体としてはその経験を反面教師にできた側面が多分にある。

そしてあの日、リスタートを切った。

実践を伴った組織論は、その後も私の中でホットなトピックスであり続けたんだ。



珍しく朝から仕事した


今でもハッキリおぼえてる、珍しく朝から仕事だったことを。

それは、2006年4月6日のこと。

大事なミーティングだったにも関わらず、寝不足すぎて意識が朦朧としてたっけ。

そもそも私が夜型の生活を送るには、それなりに理由があった。まず、自分の作業に集中できること。昼間はイレギュラーな電話や来訪者、屋外の騒音など、集中力を軽減させる要因がたくさん転がっている。深夜の「誰にも邪魔されない時間」は貴重なひとときであった。

もうひとつは、仕事の効率化。フリーランスで仕事を受けていた私は昼過ぎ、夕方、ひどい場合は夜からミーティング、というパターンがほとんど。作業に入る時間は必然と「それ以降」ということになる。「提出が翌朝」などという鬼スケジュールが組まれることもあり、深夜は必然と「作業の時間」に充てていたのだ。

午前、社内ミーティング。昼以降、外部(=私)を交えてミーティング。夕方から翌朝にかけて、作業。翌朝、担当者チェック。以後、繰り返し。これぞ効率的なプロジェクト・ワーク。

とはいえ、朝に起きられないズボラな性格を正当化しただけと頭では分かってたんだ。



中国からの黄砂を目視した


今でもハッキリおぼえてる、中国からの黄砂を目視したことを。

2006年4月18日のおやつタイム。

在宅ワークでいつも通りパソコンに向かっていた私は、目の疲れを癒そうと窓から一望できる阪神間の風景に見とれていた。しかし、ある違和感があった。空 が明るいのに曇っている。正確に言うならば、晴れた空に反して上空が霞みがかっていたのだ。

後にニュースで知ったのは、これが黄砂の影響だということ。偏西風の影響で中国から吹き飛ばされてくるサンド・ストリームであった。そう、当時はまだまだ珍しい自然現象だったっけ。

当時高まっていた中国の反日感情に対する反・反日感情。「砂なんて運んでくるんじゃないよ」。そんな気持ちも日本人にゼロではなかったろう。今や日本と中国はこんな関係になっているというのに。歴史というのは分からないものである。いや、分かろうとしなかっただけだ。

砂自体は厄介ものに違いないが、大陸から運ばれてきたのは、何も悪いものだけじゃなかったんだ。



シネギミックの会合に参加した


今でもハッキリおぼえてる、シネギミックの会合に参加したことを。

同じく2006年4月8日の17時半。

それまでの2年間、私は土曜日をすべてこの活動のミーティングに割いてきた。だからずっと楽しみに観ていたナインティナインの『めちゃイケ』を見逃し続けてきた。というのは言いがかりで、ともかく「自由な土曜」を満喫できない重圧が積もり積もっていた。

しかしあの日の私は、すでに代表引退を宣言した身。『めちゃイケ』を観れなかろうが、残り少ない仲間とのミーティングの時間は、かけがえのない愉悦だったっけ。

人生は、テレビやゲームよりはるかに面白い。そんな当たり前のことに、私はようやく気付き始めていたんだ。



ホームシアターを堪能した


今でもハッキリおぼえてる、母校を訪れたことを。

それは、2006年4月16日のお昼過ぎ。

もう二度と行けそうにない場所に足を運ぶ日々。そのうちのひとつ、出身大学のキャンパスは思い入れの深い場所だった。

うら若き入学当時からはや10年近くが経とうとしていた。まだやりたいことを何一つ成し遂げてない中で、泰然と在る中央芝居は、その後の奮起を改めて誓わせてくれたっけ。

日曜にも関わらず、偶然開店していた懐かしの学生食堂。食券を買う、トレイを運ぶ、お茶をくむ。一連のセルフサービス・スタイルは、昔とった杵柄のごとく一切の無駄を省いた動きを 呼び覚ましてくれた。食堂に限らずこの学び舎で培った魂が、体に染み込んでいたのかもしれない。

母校再訪ツアーに同乗した、かの同級生は、通りを歩く現役生を目に、こうつぶやいた。

「まだ通用すると思ったけど、ダメだね」

僕たちは歳を重ねていた。しかしそれは、決して悪くない歳の取り方だったんだ。



オムライスに感動した


今でもハッキリおぼえてる、オムライスに感動したことを。

それは、2006年4月17日の夜。

あるテレビ番組で、確か「オムライスナビ」なるコーナーが放映されていた。そこで見たものは「ドラマ」を生むオムライスであった。

薄く広く焼いた卵を、中が半熟のまた内に包み、炒めたライスの上に乗せる。そして店員が皿をテーブルまで運んできて、客の目の前で皿を小気味よく左右に振るのだ。すると、内に折り畳んであった卵の薄い幕が外側に開き、傘が開くような演出になっていた。そういえばiPodなどアップル社の製品も、パッケージを開けるとき、製品との「ご対面」を演出する観音開き仕様になってたっけ。

そしてこの日は、テレビで紹介されていた「ドラマの現場」を生で見届けたのだった。

同じテーブルの席についた友人は、小さめの声で言った。

「ほんと美味しい」

美味さを感じたのは舌だけではない。心も同じように「美味い」とつぶやいたに近かったんだ。



夢見る東京人に触れた


今でもハッキリおぼえてる、夢見る東京人に触れたことを。

それは、2006年4月18日の正午。

朝から新幹線に乗り、仕事で東京入りした私。撮影の関係で手配し、やってきた男性モデルは、どこか王子様のようなルックス。住まいが京浜東北線の「王子」というのも、図ったようで面白かったっけ。

撮影が一段落し、彼と話す機会があった。それによれば、もともと彼は役者を目指して上京し、役者として舞台に立ちながら生業としてモデル業をこなしつつ、同時にお笑いコンビも結成していたのだ。 なんと複雑な。

「今日はこのあとライブなんですよ」

漫才ではなくコントだという。折しも世間は21世紀初頭、飛ぶ鳥を落とす「お笑いブーム」まっ盛り。彼のようなルックスの者でさえ、お笑いの領域に足を踏み入れていた。層の厚さをうかがわせた。

東京という街は、人々の夢を消費して発展と衰退を繰り返していく。その一旦を。私は垣間見た気がしたんだ。



軽いミラクルが起きた


今でもハッキリおぼえてる、軽いミラクルが起きたことを。

それは、2006年4月19日の昼下がり。

出張のついでに都内で新居を探し始めた私。しかし運悪く、不動産業界全体が休みとなる水曜日であった。ならばと「住んでみたい街」の空気感に直に触れるため、まずはロボット兵が 見守る某所を歩いて散策した。iPodから流れる映画『四月物語』のピアノの旋律が、新生活を予感させてくれたっけ。

閑静な住宅街に差し掛かった頃、突然、大型バイクが目の前で止まった。

「うわっ」

ミュージシャンを目指して先に上京していた友人と、人通りのない閑静な家並みの中で出くわしたのだ。余談だが、彼はその後、知る人ぞ知る成功者として名高い 存在となった。たまたまその日、彼は道を間違えて、普段通らないルートを通りかかった。そこに、同じくたまたま私が歩いていた、というわけだ。人と人との縁はときに「引力」になぞらえるが、まさに私たちは「引き合った」のだ。

私が都内に越してからでさえ、あり得なかった奇跡。軽いミラクルが、あの日は確かに起こったんだ。



四ッ谷在住に憧れた


今でもハッキリおぼえてる、四ッ谷在住に憧れたことを。

それは、2006年4月20日の夕方。

不動産仲介業の方に案内され、車で向かった先は四ッ谷の新築マンション。今も昔も大渋滞の青山通りを抜け、皇族の紀子様が当時住んでらした赤坂御苑を横切って、最新鋭の設備が施されたマンションに到着した。

今では懐古的に思えてしまうが、不在時の来客の様子をカメラに収められるだとか、インターホンが携帯電話に直結するだとか、これでもかな装備が当時の私の心を躍らせたっけ。

「ここに住めば新宿まで自転車で10分、渋谷も20分で行けますよ」

四ッ谷といえば、山手線内のまさにど真ん中。都心の中の大都心だ。バイクがあればどこへでも、電車の必要性すらなくなってしまう究極の東京ライフが脳裏をかすめたっけ。

しかし私は、すんでの所で思いとどまった。

「都心に住むには、まだ早い」

出世に比例して、徐々に真ん中に近づいていけばいい。初っ端からど真ん中では、離れる一方だ。叶いそうな夢を追いかけているときが一番楽しいのだ。だから私は、山手線より西のエリアを選んだ。それは「徐々に近づく」という モチベーションを保ち続けるめだったんだ。



縁の強さを実感した


今でもハッキリおぼえてる、縁の強さを実感したことを。

それは、2006年4月21日の夜。

下井草にある、某不動産仲介店に足を運んでいた私。コンタクトを取っていた不動産業者は、他にも山ほどあった。インターネットで希望に合った物件を見つけ、逐一担当業者に問い合わせていたからだ。ところが東京に出張していた私の「家探しに協力してくれ」という急な願いに唯一タイミングが合ったのは、この下井草の店だけであった。

担当のお姉さんが美人だったことは否定しない。

しかしそれ以上に「これも縁だ」という直感が体を駆け巡り、必ずや自分に相応しい部屋を仲介してくれる、そんな予感を漂わせた。そして私は何度も足を運び、この店の仲介で新居の契約に漕ぎ着けたんだっけ。

「我々のような仲介業は、お客さんの側に近い立場です」

そんなことを言う同業者は、後にも先にも他にはいなかった。この店の店長は夜遅くになっても私の話に付き合ってくれ、実体験に基づく部屋探しのコツのみならず敷金全額返還の術を私に伝授してくれた。それは、業界からは目を細められる手法だった。「とりあえず」と手付金を要求する某大手さんとは違う、己の仕事に対する信念を感じさせた。「これも縁」というのは、あながち間違っていなかった。

だから私は「東京に引っ越そうと思うんだけど」と相談してくる友人がいれば「この店にお世話になるといい」と紹介する姿勢を貫いたんだ。



新居を三鷹に決めた


今でもハッキリおぼえてる、新居を三鷹に決めたことを。

それは、2006年4月22日の寝起き。

「内見した当日には決めず、一夜明けてから『いいな』と思う部屋を選んだ方がいいですよ」

下井草店の店長の言葉に、私は従った。この人に出会っていなければ、私は四ッ谷の新築を選んでいたかもしれない。家賃はケタをひとつ超えていたのだから、危険な賭けに出ずに済んだのだ。

選択肢は2つに絞られていた。下井草徒歩6分の道路沿いか、三鷹の駅前か。あまり土地勘はないが安くてそこそこ広くて「ファーストステップ」に相応しい西武新宿線沿線か、スナック街で夜は騒がしい上に予算を少しオーバーするが当初からの住みたいエリアで新生活を始められる中央線沿線か。天秤はまったくのイーブンだったっけ。

友人宅で寝床を借り、少し話をして、眠りに就いた。そしてスズメの声を目覚まし代わりにした。

「三鷹にしよう」

根拠はない。起きてすぐ「いいな」と思ったのが三鷹の方だった。本当に、ただそれだけだったんだ。



吉祥寺でカレーを食べた


今でもハッキリおぼえてる、吉祥寺でカレーを食べたことを。

それは、2006年4月23日のお昼。

生涯を振り返るに、一番仲が良かったのは彼ではないかというくらい当時から気が合った親友と、吉祥寺のカレー屋へ。新旧が入り混じる、東京の中でも1、2のお気に入りタウン吉祥寺のハーモニカ横丁に、その店はあった。余談だが、官民問わず区画整理マニアがはびこる哀しき現代において、唯一と言っていいくらい「そのまま」の形で残されたのは、この横丁くらいである。

「ホワイトカレー、食べてみます?」

もう売り切れたというわりに、少し余ったからどうぞ、というインド風の気さくな店主。ヨーグルト味のするカレーは、当時の言葉を借りれば「意外にイケる」味。店構えも変わっていて、詰めても5人しか座れないL字カウンターの中に、調理する店主1人分の小スペース。奥の人が先に食べ終わっても手前の人が食べ終わるまで外に出られないじゃないかと思いきや、壁に見えて実は裏口だったという秘密のドア。これだから吉祥寺はたまらない。

客は私と親友の2人しかいなかったが、わざわざ奥の出口から「ごちそうさま」した2人。これこそが街を楽しむ真髄だったんだ。



脱線事故から1年が経過した


今でもハッキリおぼえてる、衝撃的な脱線事故から1年が経過したことを。

それは、2006年4月25日。

そのちょうど1年前、JR福知山線の電車が尼崎駅に向かう途中で脱線した。死者が100人を越した大惨事は、当時住んでいた街が隣だったこともあり、とても他人事には思えなかった。あれ以来、私は電車の先頭車両には乗らないようになったっけ。

「これも縁」を私は今でも強く信じているが、己の死までも「これも縁」で片付けられては敵わない。ミスを許さないJRの日勤教育と、それを徹底的に叩くマスメディアの攻防戦など私にはどうでもよく、ただ今でも分からないのは 、亡くなられた106人と運転士の死は「これも縁」だったのかということ。それまでの人生に何か落ち度があったのか、惨事に巻き込まれる定めが彼らにあったのかということ。

そんなはずはないだろう。

人生は誰にも平等だ。加えて神様は、頑張る人を必ず応援してくれる。

しかし死神だけは、気まぐれだ。

その後も悲劇と呼ばれた人災、天災は、悲しいことに数え切れないほど起こった。それでも私には、この脱線事故が特に印象的で、いつも頭から離れなかったんだ。



男性に手紙を送った


今でもハッキリおぼえてる、男性に手紙を送ったことを。

それは、2006年4月26日の消印有効当日。

それ以前に私は雑誌「ハナコ・ウェスト」に特集されていた「いい男」を立ち読みし、私のドッペルゲンガーともいうべき男性を発見していた。年齢、身長、体重、出身大学、似ている有名人、好きな女性タレント、そしてその顔立ち。すべてが私と同じであった。エントリーNo.まで私の縁ある数字「13」というあまりの一致ぶりに、体が震撼したっけ。

雑誌には「アプローチ・チケット」なるものが付属していた。これを同封した手紙を締切日までに送ると、編集部が男性の元に届ける「キューピッド・システム」だったらしかった。この企画を通じて生まれたカップルもあったというが、男から手紙が送られてくるケースは稀だろう。私は性別が違えばラブレターにもとれる、切なる願いを紙に認めていた。

「会いませんか」

この世にドッペルゲンガーが本当に存在するのかを確かめられるのは我々だけです、そんな煽り文句も交えつつ。私が逆の立場なら、少し心はぐらつくが、たぶん会うことはないだろう。人間本来が持つ野生のカンが「これはヤバイ」と脳に信号を送るだろう。

友人同士ならともかく会ったこともない同性の人間に手紙を送るなんてことは、その後の人生を振り返っても、そうはない。だからあの日は、とても稀有な日と言えたんだ。



先生のブログを発見した


今でもハッキリおぼえてる、先生のブログを発見したことを。

それは、2006年4月27日のお昼どき。

今でも先生と呼びたい人は数あれど、中でも特に尊敬しているのが大学時代のゼミの担当教諭。あまり生の声を外に出さないミステリアスな雰囲気が、私淑するに相応しい存在感を醸し出していた。

そんな「センセイ」が、ブログと呼ばれた電子日記で内なる声を綴っていた。ブログが何かよく分かってないと漏らしつつ、その意義と有用性を書き始めから理解 されてたは文章からも見て取れた。何より、その言葉ひとつひとつがあまりに新鮮だったっけ。

「そういうのは苦手です」とでも言いそうな人たちにまで押し寄せた、一連のブログ・ブーム。センセイのブログを発見したことは、インターネットとそのサービスが、いよいよ一般化してきたことを実感するに相応しいトピックだったんだ。



ホームシアターを堪能した


今でもハッキリおぼえてる、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』を大画面で観たことを。

それは、2006年4月28日の深夜。

翌日、我が家から運び出すことになっていた、シネギミック所有のプロジェクター。それを用いた100インチはあろうかという大画面での映画鑑賞。部屋の白壁に投影した、いわゆるホームシアターだ。

友人を招いて「最後の映画鑑賞」を堪能すれば良かったが、どこかで「独り占めしたい」「誰にも邪魔されたくない」気持ちがこみ上げ、感慨深げに「一番好きな映画」を味わったっけ。

私が個人的にプロジェクターを購入し、映画の世界に没入できる環境を手に入れられるのは、それからずっと後になる。

「出世して、プロジェクターを買ってやる」

東京生活をスタートするにあたっての、それは大きなひとつのモチベーションだったんだ。


2006年3月 2006年4月 2006年5月


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