シネギミック、3年間の軌跡。


1.終わりの始まり
2.助走金の獲得
3.震災とシネギミック
4.仲間との歯車
5.決まりゆく概要
6.会場探し1:門前払い編
7.会場探し2:知人の紹介編
8.会場探し3:天国から地獄編
9.延期の決断
10.明日への活力
11.夏の上映会
12.屋内上映会
13.市内か市外か

14.映画の選定
15.会場の決定
16.急ピッチの準備1:内装編
17.急ピッチの準備2:機材編
18.急ピッチの準備3:落とし穴編
19.急ピッチの準備4:宣伝編
20.シアターギミック開催
21.代表の引退
22.ライター松岡厚志
23.新体制の船出
24.やり残したこと
25.若者・よそ者・バカ者
26.支援者にありがとう
27.濃密な3年間
28.最後の言葉

シネギミックとは…

「西宮に映画館をつくろう」を合言葉に、2003年結成。20〜30代のメンバーで構成され、夏の浜辺上映会など「場所×映画」の上映会を演出。映画のチカラで街にムーブメントを起こす「MOViEMENT!」の魂で現在も活動中。2006年より新体制でリスタート。http://www.cine-gimmick.com/


1.終わりの始まり


虎が吠えた。

「ミニシアターなんて、もうダメでしょ」

神戸市内の、とある高層ビル。眼下には震災からの復興著しい街並みが広がっている。その一室に、重鎮という名の虎たちが一羽のうさぎを取り囲んでいた。いずれも名前くらいは聞いたことのある、神戸のお偉方たちだ。

「知り合いでミニシアターを経営してる人がいるんです。でも(経営は)厳しいって言ってましたよ」

ミニシアターの経営が厳しいのは今に始まったことではない。そもそも初めから、総じて順調ではない。しかし「他では観られない映画」を上映するための苦闘の歴史と汗が染み込んだ場所、それがミニシアターだ。

「西宮で映画館をやりたいんです。1ヶ月だけでも期間限定で」

恒常的な映画館を運営するための、大きなステップを踏みたい。それを「ミニシアター」と呼ぶかどうかは分からないが、とにかく自分たちの手で映画館を生み出したい。経営が厳しそう、というのは今さら諦める理由にはならない。

とにかく僕は、僕たちは、自ら映画館を運営したいのだ。

与えられたわずかな時間のスピーチで、どれだけ虎たちの心を動かせたかは分からない。言葉もさぞ、たどたどしかっただろう。ただ、魂だけはありったけ込めた。自分に偽りのない思いの丈をぶちまけた。

後日、事務局から連絡が入る。

「当初の予算からは減額される形になりますが、それでもこの計画を進めますか?」

はい、という2文字を一度は呑み込み、そしてゆっくり吐き出した。

2004年の11月、秋の上映会が始まる直前のことだった。


つづく。

2.助走金の獲得


「どうやって運営しているんですか」

よくある質問のひとつだ。

「西宮に映画館をつくろう」と2003年に結成されたシネギミックは、目標達成に向けたステップとして、数々の映画上映会を主催してきた。その多くが入場無料のイベントであり、チケット収入は「おまけ」と見る会も多かった。しかしそれでも会が赤字になることはなかった。

助成金を得ていたからだ。

特定の企業や団体に金銭的にスポンサードされていたわけではない。上映会の企画を立て、助成金を得られる公募の機会を探しては応募し、選ばれてきた。あるいは公募の案内を先に見つけ、支援される限度額に見合う企画を練ってきた。

それ以外はフリーマーケットで小銭を稼ぐなど自転車操業をするしかなく、シネギミックの発展は助成金と共にあった。

忘れてはならないのは、これまで得てきた助成金はみな行政サイドから捻出されたものだということだ。つまり、市民や県民の血税から搾り出されている。助成金に依存する体質をいずれは改善する必要があった。

とはいえ、どんな組織にもスタート時における資金面での体力が不可欠である。ベンチャー企業にベンチャーキャピタルがあるように、民間で支援してくれるインキュベーション(孵化)事業が必ずどこかにあるはずだ。行政に限らず「民間の助成金」がきっとあるはずだ。だから僕たちは、常々情報を集めていた。

そんなある日「KOBE HYOGO 2005 夢基金プロジェクト」の存在を友人に教えてもらった。神戸のとある企業が震災復興に携わる団体や活動に最高300万円の支援金を与える、というものだった。

これだ。

シネギミックはこの支援事業に「1ヶ月だけの映画館 in 西宮」という企画を「虎たち」の前でプレゼンテーションし、結果として支援金を受け取った。血税ではないが、限りなくそれに近い。震災復興を願う人々が「投資」したお金の一部を授かることになるのだ。その責を重く受け止めながら、これまで手にしたことのない大きな準備金を僕たちは手に入れた。

その額、219万円。

後付けだがこの金額は、夢を219(追求)するには語呂的にピッタリだった。そして、支援企業の担当者がかけてくれた言葉も忘れがたい。

「これを機に、活動に弾みをつけてくださいね。このお金はその手助けとなる“助走金”です」


つづく。

3.震災とシネギミック


「震災で映画館がなくなったんです」

なぜシネギミックのような活動を、と問われて繰り返していたのが、この言葉。「それ以来、西宮にはひとつも映画館がないんですよ」という台詞とセットになっていた。

要点は「西宮に映画館がひとつもない」だ。ところがどうしても聞き手は「震災」というワードに敏感だ。ニュースをつくるメディアなら、なおのこと。

はっきりさせておきたいのは、シネギミックの活動は阪神・淡路大震災に直接起因しないということだ。西宮の映画館がゼロになってしまった原因が震災にあると知ったのは活動を開始してからで、そもそもの活動趣旨は、

「映画館がない、だからつくろう」

ただそれだけだった。

仲間が集まり、シネギミックという名のチームが結成されるに至るまで、僕はひとりで活動をしていた。活動といっても「映画館をつくる」ための具体的なアクションではなく、まずは「映画館がないことの周知徹底」を図っていた。つまり啓蒙活動だ。

その中で、ひとりの男性と知り合う。

震災によって崩壊した西宮最後の映画館を運営していた館主その人であった。

彼の話は大変興味深く、西宮や映画界の歴史から個人的な武勇伝めいたものまで気さくに話をしてくれた。やがて彼が企画する映画上映会に僕はゲストスピーカーとして呼ばれるようになり、「西宮に映画館が必要である」ということを伝える大役を仰せつかるまでになった。

だが、僕には最後まで後ろめたさが拭えなかった。

「震災を直接体験していない者に、人前でそれを語る資格があるのだろうか」

元映画館主が企画する上映会が「震災色」を前面に出している限り、僕の出る幕はないのではないか。そう思い、僕の心は徐々に離れていった。

だから「KOBE HYOGO 2005 夢基金プロジェクト」から支援金を得たときも、喜びの一方、晴れ晴れとはしていなかった。「震災復興」という大義名分こそが唯一の応募資格だったからだ。

ただ、信念をもって行ったことが結果的に「震災復興」にカテゴライズされるとしても、それはそれで悪いことではないのかもしれない。何より「震災復興」を願っていないわけがない。

大事なのは「これから何をやるか、何を残すか」だ。

以後、シネギミックは気持ちを切り替え「1ヶ月だけの映画館」を実現するため、邁進していく。足掛け1年のプロジェクトになるとも知らずに。


つづく。

4.仲間との歯車


「面白いことやってるなあ」

確か、そんな言葉だったように思う。すっかり疎遠になってしまった元映画館主の上映会には、思わぬ副産物があった。観客として参加したひとりの女性が、パネリストの僕に声をかけたのだ。

人前で話をするのも初めてならば、人に声をかけられるのも初めてだった。そしてこの女性との出会いが、大きなターニングポイントをもたらすことになる。

「一緒に上映会を開こうよ」

歴史を調べ、実態をレポートし、啓蒙することこそが「映画館をつくる活動」であると僕は妄信していた。しかし彼女の呼びかけを耳にして、初めて本気で「実践する」という意欲がリアリティを持って生まれたのだった。

シネギミックの真の生みの親は、彼女だ。

以後、主にインターネットを活用し、様々な人材がシネギミックに集うことになる。

20代を中心に、会社員、公務員、学生、NPO職員、コンサルタント、クリエイター等。誰一人、本業が被らない、多角的な組織が形作られていった。

特徴的なのは、全員が映画の素人であったことだ。

そもそも代表の僕ですら映画業界とはさっぱり無縁。フリーライターという仕事柄、映画監督にインタビューすることはあっても、自身が「映画」の2文字を肩書きに冠することはない。

メンバーの中には映画研究部の出身者は多いし、映画を自主制作してきた面々もいる。のちに映画館で働くメンバーも参加するようになったが、当初は「みんな映画と無関係」というニュートラルなスタンスをとっていた。それが逆にシネギミックという活動を面白くしていった。

歯車がひとつでは何の役にも立たないが、それらがひとつふたつと絡み合うことで大きな「動力」を生み出していく。シネギミックのロゴのモチーフとなった「歯車」が、確かに動き始めた。

さあ、みんなで映画館をつくろう。


つづく。

5.決まりゆく概要


1ヶ月限定で運営する、映画館の名前が決まった。

「シアターギミック」

シネギミックが運営するシアターだから、シアターギミック。この単純明快さがいい。

続いて、キャッチコピー。

「オトナがつくる、本気の秘密基地」

単なる映画館ではない、映画をきっかけとした「発信する拠点」という意味でこのコピーを採用した。場面によっては「震災後初の西宮映画館」という言葉も併用していたが、通底していたのは「秘密基地をつくる」というドキドキ感だ。

また、それまでの上映イベントではチーム内に立てられたプロジェクトリーダーに準備作業を一存する傾向が強く、リスクも作業量も一極集中の嫌いがあったため、分業化する方針を採用した。

会場を探す者、内装を整える者、裏方の手続きを進める者、上映作品を最終決定する者など。

それぞれの分野をメンバーが個別に専任することで、効率の良いチームワークを発揮することが狙いであった。また、シネギミック史上かつてないビッグプロジェクトであったため、自動的にプロジェクトリーダーに就任した僕が「社長業」と「部長業」で手一杯にならぬよう、仲間に求めたSOSでもあった。

そして、開催日も決定。

「2005年の5月から1ヶ月間」

決定時の2004年末から計算すると、あと4ヶ月しかない急ピッチなスケジュール。しかし恒例の夏の野外上映会と時期が重ならないよう、それ以前に実現したい思いがそこにあった。仮に夏の上映会をまたいでしまうとメンバーのモチベーションが低下する可能性すらある。この開催日決定は、全会の一致をみる。

ところが、肝心なものがひとつ決まっていなかった。

会場だ。


つづく。

6.会場探し1:門前払い編


まるで家探しをするように、不動産屋さんに足を運んだ。

この手の類は法人向けの物件も扱っており、事務所として使えるテナント物件のほか、業務用倉庫も仲介してくれる。とにかく情報収集には欠かせない存在だ。

ところが大きな落とし穴があった。

「1ヶ月だけでは貸せないですねえ」

仲介業者は賃貸物件を仲介するだけで、貸すかどうかの判断はあくまで物件ごとのオーナーだ。しかし仲介業者は経験上「貸すには期間が短すぎる」と言った。最低でも3ヶ月は借りてくれないとオーナーさんが嫌がる、と。

嫌がるも何も家賃収入が入るなら1ヶ月借りるだけでもいいじゃないか、というのは素人発想。

即日契約ならまだしも、シネギミックが予定している期間は何ヶ月も先。それまでの間、年間契約をするような「オーナーにとってありがたい企業」が現れない可能性はゼロではない。だから「何ヵ月後かの1ヶ月間だけ」では貸せない。そういうロジックであった。

調べておきます、と言いつつ連絡をくれない業者が後を絶たなかった。僕たちは明らかに敬遠されていた。こなくそ、こちらから願い下げだ。

次の手に出た。実際に市内を練り歩き、「空き物件」の看板が掲げられたテナントや倉庫を自力で見つける。そして看板に書かれた連絡先に直接電話をするのだ。

つまり、オーナーへの直談判。

しかし後から気付いたが、オーナーの連絡先が直に書かれていることは、まずありえない。仲介業者とオーナーの間にはもうひとつ「管理業者」というものがあり、そこの連絡先が書かれているケースが多い。

そして案の定、管理業者に電話で尋ねても、ほとんど門前払い。中にはほとんど逆ギレに近い対応を受けることも。

不動産業界には「金を出すのはこっちだべ」というのは通用しないようだ。


つづく。

7.会場探し2:知人の紹介編


仲介業者や管理業者など業務として不動産を扱う人たちには、僕らのような「無償でイベント運営に奔走する姿勢」を理解してもらえた試しがない。誉め言葉なのか呆れているのか、露骨に「分からん」と言われたこともある。

このハードルを、まずは越えなければならない。

目星をつけたのは「知人からの紹介」だ。シネギミックの活動に一定の理解がある友人・知人の中で不動産関係につながりのある人に「顔つなぎ」をしてもらい、交渉の場を設けてもらうこと。これが一番の近道のはずだ。

シネギミックのような地域的な活動には、困ったときに助けてくれる人的ネットワークの形成と「それは面白そうだ」と人が乗り気になってくれるテーマ性が必要だ。幸い、シネギミックにはそれらが少なからずあった。

早速、何人かの人につないでもらった。いくつか物件候補が間取り付きで挙がってくる。おお、動きが早い。

魅力的に映ったのは、灘五郷の日本酒メーカーが多く集まる「酒蔵通り」の近辺の、いくつかの業務用倉庫だった。

天井の高さや無機質な感じが「アジト」っぽさを醸し出せる上、広さも申し分がない。自由にレイアウトでき、映画を上映するだけに留まらない可能性を感じさせる余地が倉庫にはあった。

さて、どの物件にしようか。

まずは前提条件として「法律に合致するかどうか」の視点は外せない。映画館を運営するにあたり、法律的な観点から「合法」「非合法」の境目にマルとバツを付けていき、最終的な候補を絞り込むのだ。

普通の家探しなら「エアコン付き」だとか「バス・トイレ別」だとか、「だったらいいな」の項目にチェックを入れて、加点法で絞り込む。

しかし映画館というのは法律上、非常に限定的で「こうじゃないと運営できない」という決まりがあり、ひとつでもクリアできない場合は運営自体が違法になってしまう。減点法で「問題点ゼロ」まで絞り込み、ようやく晴れて「映画館の候補」となるのだ。

例えば建設できるエリア。市はその区域がどのように使われるかをあらかじめ指定しているのだが(それを用途地域と呼ぶ)映画館はそのうち

・「商業地区」
・「準工業地区」

そして会場規模が200u以下という条件付きで

・「準住居地区」
・「近隣商業地区」

の合計4エリアでしか運営できない。ざっくり言えば駅前か工場地帯のみだ。

他にも必要とされるトイレの数(便器の個数)などが会場の広さごとに細かく定められている。さらには会場に隣接する道路の必要幅だとか、主に「非難時の安全性確保」という観点から映画館というのは定義されているのだ。

マル、マル、マル、嗚呼ここはバツ。

厳しい基準をクリアしながら絞り込み、数件の倉庫を最終候補とした。そして予算と照らし合わせながら「ここだったらこんなことができる」というイメージを膨らませ、メンバー内で物件ごとに優先順位をつけていった。

期待度は大いに高まっていた。

「ここ、借りたいのですが」

意を決した、問い合わせの電話をかける。しかし無情にも、答えはすべてNO。

理由は?

「1ヶ月では貸せません」

……まただよ、お母さん。


つづく。

8.会場探し3:天国から地獄編


めげない団体、それがシネギミック。

「突撃となりの空き物件!」

ということで、自転車で市内を散策しては、よさげな建物をマーキング。そんな中、とても風情のある建物をひとつ見つけた。

もはや怖いものなしになっていた僕たちは、アポなしで突撃を敢行する。ヨネスケもビックリだ。

「すいません、この建物で映画を上映したいのですが」

は? という対応。それはそうだ。

しかし話を進めていくと、ご丁寧にも担当者を呼んでくれるとのこと。どうやらこの建物は、某食品会社の持ち物らしい。

はじめ総務部の方がご対応くださり、話は役員クラスにも及ぶ。自社商品の販売戦略上、映画上映会のような「仕掛け」はむしろ歓迎、しかも「地元の活動を応援したい」との嬉しい回答を得た。

ついに決まりか?

イベント会場を探すには「建物を持て余している企業に話を持ちかける」ことが最短の近道であることを痛感した。加えて地元企業なら、地域的な活動にも理解は大きい。

そして話は好転し、後日、シネギミックのメンバーみんなで見学させてもらえることに。会場内の雰囲気を肌で感じるためには必要なことだ。平日にも関わらずメンバーは10名ほど集まった。中には仕事を早退してまで駆けつけた、熱い魂の持ち主までいた。

しかし僕らを待ち受けていたのは、奈落の底に突き落とす悪魔の通告であった。

「いい加減にしてくれ」

え?

役員クラスの話では、ビジネス戦略上むしろ歓迎されていたはずの本企画。どうやら現場サイドでは「厄介なもの」に映っていたらしい。

理由は「安全性の危機」にあった。

映画を上映するとなると、例え完全予約制を敷いたとしても「不特定多数の人間」が出入りすることになる。となると企業に恨みを持つ者か、あるいはただの愉快犯か、観客を装った不審者がいつ何時現れ、毒物的なものを商品に混入しないとも限らない。不幸なことにこの候補地は、食品会社の工場エリアの中にあったのだ。

食品会社が不祥事を起こしたら一大事、その責任を取れるのか。手厳しいお叱りを受けた。

西宮に映画館が必要だと思うから、その一環で、今回の企画を実現したいんだ。そういう「熱意」も仕事の現場に生活を賭けている人たちにとっては疎ましいものにしか映っていなかったのだ。

メンバーがみな、痛々しいほど沈黙する。ある者は落ち込んで下を向き、ある者は考え事をして上を向く。焦点の定まらなさが動揺ぶりを物語っていた。

一企業の役員と現場のすれ違いが、シネギミックに飛び火した。そんな煽りを食らったことよりも、またひとつシアターギミックの候補地が消滅したことに、僕は悔しさを隠し切れないでいた。

西宮のえべっさん、僕らを見捨てないで。


つづく。

9.延期の決断


使っていない建物を所有する地元企業にアプローチ、という着眼点は間違ってなかったように思う。というより、これしか方法は残されていなかった。

もうひとつ有力な候補地が挙がったが、これまた食品会社の、同じく工場内。別件でつながりのあった商工会議所を通じ、役員クラスから逆に持ち込まれた話だったが、結局は「安全性の危機」というまったく同じ理由で破談になった。

現実はそう甘くなく、月日はいたずらに過ぎていく。

ちなみに2005年4月、廃墟化したプールで「ファイナル・コマ・シネマ」なる上映会を開催したが、実はこのプールも当初はシアターギミックの会場候補地のひとつだった。

しかし5月のシアターギミック開催時には取り壊しが始まるとも聞いていた。何とか食い下がり、工期の延期を申し出たが、さすがに受け入れてはもらえなかった。だったらせめて1日だけでもということで上映会自体は実施できたが、無念にもシアターギミックの会場としては使えなかった。

8月の野外上映会より前にシアターギミックを実現したいというシネギミック側の都合で立てられたスケジュールは、やはり無理があったようだ。

苦慮の末、ひとつの決断を下す。

「シアターギミック、延期します」

すでに開催スケジュールまで刷ってあった広報物も、結果的には先走ったものになってしまった。友人との旅行計画を延期してまでシアターギミックに都合を合わせていたメンバーもいたが、これもまた徒労に終わらせてしまった。

「中止するのもアリじゃない?」なんて意見まで飛び交う始末。「シアターギミックの灯」が、メンバーの中からこぼれ落ちていく。たいまつのように燃え滾っていたみんなの熱い気持ちが、今にも消えそうなロウソクの灯と化していく。

そしてミーティングの参加者は激減していく。分業制のチームワークも形骸化していく。

よくない歯車が回り始めた。


つづく。

10.明日への活力


シアターギミックを、春から秋に延期することにした。

今度は具体的な期日を明言しなかった。考えたくはないが再延期の可能性を残した形だ。しかしどう考えても、このままでは細かい日取りまで組めなかったのが正直なところ。

ただし、物件探しは手を休めない。8月に実施する西宮浜野外上映会の準備と並行し、いい場所が見つかれば、すかさずコンタクトを試みた。

普段、会社勤めをしていない僕は、時間の融通は利く方だ。一般企業相手の仕事が大半のため、そうはいってもワーキングタイムは仕事の時間に充てている。それでも僕は空き時間を見つけては本業そっちのけで物件探しに奔走した。取り憑かれたように一日中、市内を練り歩いたこともある。

今振り返るに、自分をそこまで突き動かしていたものは、一体何だったのだろうか。

必死にならないと会場が決まらないというプレッシャーか。もう2度と延期はしたくないというプライドか。期待を裏切りたくない人々への義務感か。消沈気味のメンバーを鼓舞したいという焦りか。

この月までには決めないとスケジュール的に厳しくなる、というリミットがどんどん後ろに押し出される。ついには不安が現実のものとなり、夏の上映会をまたいでしまった。

その間、候補地が見つからなかったわけではない。

ずっと廃墟状態だった5階建ての元焼肉店だとか、大型ホームセンターの跡地だとか、わざわざ法務局で手数料を支払って持ち主を確認した店舗物件だとか。何かと話題だった西宮冷蔵にも足を運んだっけ。しかし見つけては法律チェックでアウト、交渉にこぎつけても別の理由でアウト、そんなバトルを繰り返していた。

その都度、概要をまとめた企画書や何者かと怪しまれないための団体自己紹介書(特に取材された新聞記事の切り抜きは有効)など資料をまとめては先方に郵送し、交渉開始。しかし決裂、もしくは自主的に断念するといった苦闘の日々が続いていた。

それでも、僕は楽しかった。

「この場所、映画上映に使えるかも」

というひとつのフィルターを通すことで、慣れ親しんだはずの街が別の顔を覗かせる。何となく街並みを通り過ぎていた頃には気が付かなかったものが、色をつけて浮かび上がってくる。

例えばお店を開こうと考えている人なら、最適な広さで雰囲気のいい空き物件に目がいく。街中に広告を打とうと考えている人なら、人通りの多い道や人の目に触れそうな壁に目がいく。泥棒をしようと考えている人なら、お金を持っていそうな留守宅に目がいくだろう。

同じ街に住みながら、見えている風景は人によって異なるということを初めて実感した。なるほど「こんなところは知らなかった」ということが、何年も住んでいる街でもあり得るのである。

そして、僕にとってはそうした「新しい発見」こそが、明日への活力となっていた。


つづく。

11.夏の上映会


シアターギミックの物件が決まらないまま、3年目となる夏の上映会を迎えた。

「この先、10年間は続けようと思います」

シネギミックは、このとき高らかに宣言した。

映画館をつくる過程で生まれた「場所×映画」の公式を典型的に表現する、シネギミックの代名詞的イベント。それが西宮浜での野外上映会だ。

公園など屋外で映画を上映する場合、「お客さん」と「散歩する人」を区分けすることはできず、チケット販売による収入は期待できない。何より公共の場を営利目的には使えない。損をすることはあっても儲けを得る機会はほとんどない。

しかしそんなことよりも「シネギミックは浜辺で映画を上映する団体」という認識の方が世間では知れ渡っていたし、ひとつの上映会を恒例化し、認知度を高める狙いもあった。何より、そもそも活動自体が営利を目的にしていない。訪れてくれた人に「年に一度の思い出」を持ち帰ってもらうことが、開催する一番の理由だ。

夏はフジロックでもなくサマソニでもなく、シネギミだ。

これといって進展のないシアターギミックよりも、まずはこちらに集中することにした。

2005年のテーマは「みんなで泣こう」。

例年通り「名前くらいは聞いたことがあるけれど、何となく見逃してきた名作」を掘り起こす。選んだ今年の作品は『マイ・ドッグ・スキップ』。少年と犬の心温まる物語だ。

ズルいくらいにハートウォーミングで、事前に観ていたにも関わらず、当日現地でも涙。300人ほど集まったお客さんが皆、すすり泣きながら帰路についていたのが印象的だった。

今回の上映会に足を運んでくれた、例えば10歳の子供が、10年の時を経たとする。20歳になったその子が「ここで映画を観たのがきっかけで映画監督になりました」なんてことになったら、飛び上がるほど嬉しい。10年後のシネギミックにスタッフとして参加してくれるのも大歓迎だ。

そうして、少年少女の「原点」になればいい。

だからこそ、子供が大人になるおよそ10年という期間は、ひとつの上映会を続けていく意義がある。

時を経て、初めて芽吹く種。それらを撒いていく「花咲か爺さん」的活動が、シネギミックの真骨頂なのかもしれない。


つづく。

12.屋内上映会


西宮浜の野外上映会がヨットハーバーを背にした絶好のロケーションであることも手伝って、シネギミックは「屋外で映画を上映する団体」というイメージがついてきた。

しかし割合的には屋内での上映会も、実は多い。

2004年の春はスナックだった。今はスーパーになってしまった映画館跡地の隣で、映写技師の娘が経営するお店。

ここでは『女性上位時代』を上映した。地元のお祭りでセーラー服を着てはしゃぐ「ママ」のパワフルさは、まさに「女性上位」を象徴する空間。

2004年の秋は旧ホテルだった。今では地元女子大の施設となったフランク・ロイド・ライト縁の名建築、かつて「甲子園ホテル」と呼ばれた70年モノの建物。

ここでは年配の方にターゲットを絞り、名画『雨に唄えば』を上映した。ノーベル賞授賞式で出される「北欧紅茶」を振舞ったり、かつて甲子園ホテルで働いた製菓長の孫が経営する洋菓子店のクッキーを提供したりと、今でも再演を望む声が聞かれるイベントだった。

2005年の年明けはカフェ・レストランだった。酒蔵通りに突如出現したハイセンスな空間で、特別メニューを食しながら映画を観る企画。

バレンタインの時期もあり、ターゲットはカップル。1日2回の『マーサの幸せレシピ』の上映が満席になったことも嬉しかったが、お店との共催という形を取れたこと、上映機材を提供してくれるスポンサーが初めて付いたことなども忘れがたい。

そして2005年の春は、先にも述べた廃墟化していたプール。市民に愛されたプールを名残惜しむ企画。懐中電灯持参で『グーニーズ』を鑑賞するアトラクション的なイベントだった。

隣接する西宮スタジアムの取り壊しがすでに始まっており、当のプールも締め切られた工事現場の中にあった。つまり危険エリアであった。しかしスロープの設置やスタッフによる誘導を徹底する約束で、オーナーであるお堅い阪急の首を縦に振らせた。

スナック、ホテル、レストラン、廃墟プール。およそ映画とは無縁の空間を、シネギミックは映画で味付けしてきた。

そして、周囲を巻き込み始めた。


つづく。

13.市内か市外か


周囲への波及は、西宮市外へも飛び出した。

もともと「西宮に映画館をつくろう」がシネギミックのスローガンであり、活動拠点は西宮、という意識は思いのほか根強い。実は市の境界線からわずか徒歩10秒の位置に住む「宝塚市民」だった僕も、この活動を始めてからは西宮に転居し、ますます地域活動の側面を強くしていった。

しかし僕の真意は別のところにあった。

確かに西宮市には特別な思い入れがある。1年余分に大学生活を送った街であり、その後の人生の「弾み」をつけてくれた場所。住みよい住環境もプラスして、このまま一生住んでもいいとさえ思えた。ただ、シネギミックの活動が西宮市内に限定されたものにはしたくなかった。

まずは地元から、足元から、できることをやる。その過程ひとつひとつをケーススタディとし、いずれ結果を伴って、他市にも適用できるモデルケースにする。

一地域活動で終わらせない。それが狙いだった。

徹底的にドメスティックな活動は、逆説的に、真の意味でグローバルなのである。アメリカに留学した際、日本を見つめ直した中で生まれた発想を、フラクタクルに地域活動に落とし込んだわけだ。

その視点が奏功したのか、いくつかの上映会をこなすうち、西宮市とは無縁の企業や店舗から続々と問い合わせが増えた。そのほとんどが「うちと組まないか」という提案や探り入れであり、実際にスポンサードされるに至るケースもあった。

インディペンデントなものにすぎなかった「地域」の活動を、飛び越えた瞬間だった。

ただし、これまでも、これからも「西宮を拠点」とする姿勢は変わらない。地盤は強固であるべきだし、何より応援してくれる人たちをないがしろにするわけにはいかない。

なんだか政治みたいな話になってしまった。


つづく。

 

14.映画の選定


会場が決まらなくとも、できることはある。そのひとつが「上映作品の選考」。

それまでの上映会はほとんどが「1日、1作品だけ」というスペシャル感の強いイベントだったが、シアターギミックは違う。1ヶ月という長丁場であり、それは恒常的な映画館を将来運営するための、最初にして最大の実験なのである。

だから「ただこの映画を上映したい」という私欲だけで作品を選定してはいけない。本当に人が観たいと思うもの、わざわざ足を運んで観たいと思うものを提供することがプロにつながる姿勢だ。

一方で、私欲を一切なくすのもまた違う。本音で「この映画を観たい」と思っていなければ、客に「観せる」資格がない。

自分が観たいと思っていて、みんなも観たいと思っている。その核に迫る選定作業は、当たり前だけど、映画館の「肝」だ。魚屋が魚を競りで見定めるようなものだ。

だから僕は上映作品のセレクトに「主体的に」参加することをメンバーに求めた。口で伝えることには限界があるから、システムにメッセージを込めた。

チーム化だ。

1ヶ月は4週でできている。最終的には色んな絡みで開催期間を実質3週に縮小したが、ともあれ「週」というタームを活用することにした。週ごとにテーマ性を与え、各メンバーが「決定権」に近いところでポジションを取れるよう、選定作業を班ごとに分散したのだ。

ちょうど4週ということで「喜怒哀楽」という四文字熟語をテーマに挙げた。その映画を観て喜怒哀楽などの「感情」をお客さんに抱いて欲しい、という思いを込めて、それぞれの週に「喜」「怒」「哀」「楽」のテーマを割り振った。

これは、もともと活動趣旨に掲げていた「感情都市宣言」につながる。

映画館がなくなり、スタジアムがなくなり、アメフトがなくなり、競輪がなくなり。一方で駅前に高層マンションが競うように並び立ち、西宮という街は震災を境に大きな過渡期を迎えていた。それ自体は悪くないけれど、どうも僕は「人間味」が損なわれていくように思えてならなかった。街から「思い出」が消え、新たに生まれることもない気がしてならなかった。

回顧主義と混同されては困る。「昔はよかったよね」というのは全肯定しない。歴史を経て学んだものがあるのなら、今の方が良いに決まっている。ただ、昔はできていたものが失われてしまう、つまりマイナスに転じてしまうのはよろしくない。というか、もったいない。

街は人と人とで出来ている。その繋ぎ目の役を、例えば映画館というものが果たせるのなら、僕はそこに賭けたかった。

映画館は、街に住むみんなをつなげるリボンのようなものだ。

シアターギミックは、計12作品の映画を上映することにした。1日2作品。オープニングやフィナーレの他、土曜の夜や祭日にスペシャルな作品を上映する他は、毎日同じ映画を上映する。

街におけるシネギミックの「映画館」というものが果たして機能するのかどうか。挑戦しがいのある、未知の領域であった。


つづく。

15.会場の決定


朗報が転がり込んできた。

9月末で空きがでるテナントが阪急西宮北口駅前にあるという情報を、知人から仕入れた。西宮市最大の乗降客であふれる「乗り換え駅」。そこから徒歩2分の位置にある物件、というのは願ってもない話だ。

もちろん商店が密集する駅前である以上、倉庫のような広々とした空間は期待できない。アジトのような、秘密基地のような雰囲気を醸しだすことは、少なくとも外観からは難しい。もともと事務所として使われていたテナントだから、天井高も映画上映には条件的に厳しい。

しかし会場探しに「ベスト」はないということは、この長い月日が教えてくれている。この物件を活かさない手はない。

一番の決め手は、メンバーの盛り上がりっぷりだ。9月で立ち退く借り手がまだ営業をしている段階ながら、外観だけでもとその場にみんなで訪れ、期待感が大きく膨らんだことが会場決定の大きな決め手となった。

1階に2フロア、2階に小部屋が3つあり、地下駐車場を完備。入口の自動ドアへは階段があるためバリアフリーというわけにはいかないが、チケットをもぎれるカウンターあり、待機所として使えるスペースあり。相当に「悪くない」物件だった。

ただ、契約完了までは少し難儀した。借り手がついていたのはたまたまで、もとは賃貸予定のないテナント。加えてシネギミックが物件賃貸に割ける予算も少なく、用途は映画上映というオーナーにとっても未知数の契約形態。

オーナーのもとへ、僕は何度も足を運んだ。

まず企画の概要を説明し、大まかなイメージをつかんでもらう。次に企画の趣旨を説明し、それに賭けるハートを感じてもらう。その後、想定されるであろうトラブルを未然に防ぐため、何度も何度も刷り合わせを重ねていく。

一番の問題は、シネギミックが任意団体であるということだ。法人格をもっていないため、実質、個人と取り引きすることと変わらない。つまり僕、松岡厚志の人間性が問われることになる。

シネギミックにどういうメンバーがいて、どういう活動をしていて、それが何をもたらすか、というのはオーナーにとって大きな問題ではなかったように思う。

「こいつは信用できるのか」

その一点だけが、契約主になる僕という人間に大きく突きつけられたのだ。

実は、破談しかけたこともあった。先に述べたように、映画館を映画館たらしめるには、法的な基準が多い。それはつまり「手続きの多さ」を意味する。そして、ひとたび「映画館」として市に用途変更を認められれば、その分、建物の維持・管理の面で制約が増える。貸し手としては面倒極まりない。

この会場で映画を上映すべく、周辺準備を進めていたにも関わらず、どんでん返しを食らう寸前までいった。

しかし、最後は僕らの情熱が上回った。

結局、年末に開催するという余裕を見たはずが、契約のハンコを押せるようになった時点ですでに11月半ば。とてつもないギリギリのスケジュールだったが、「もう、ここしかない」という気合いでここまでやってきた。

さあ、スタートラインに立った。


つづく。

16.急ピッチの準備1:内装編


シアターギミック、12月開催決定。

物件を契約できると信じ、遅ればせながら各方面の準備を急ピッチで進めた。

まず、内装。個人的な知り合いに店舗設計事務所の社長がいて、無償で協力してくれることになった。残念なことに「貸す予定のなかったテナント」であったため、建物の寸法が書かれた図面が当初見当たらず、一から測り直すという無理なお願いをすることから始めた。

柱や壁のサイズを計測しながら、空間の活かし方を社長と相談し合う。その結果、例えば2フロアある1階部分のうち、入口入ってすぐの部屋の方が広さも天井高も映画上映に相応しかったが、奥の部屋で上映することを選んだ。

というのも、入ってすぐの部屋では外からの騒音を防げず、同時に劇中の音も外に完全シャットアウトすることができない。チケットのもぎりをどこでやるかという問題もあるし、早めに会場に来たお客さんを外で待たせるのも良くない。そうした様々な角度から総合的に判断したのだ。

内装には凝りたかった。外観に特徴がない以上、入場したときの驚きや心地よさといったものを大事にしたかった。タバコのヤニで酷く汚れ、壁紙がボロボロに剥がれたこの部屋をいかに「映画空間」に仕上げるか、腕の見せどころでもあった。

壁については壁紙を張り替えたり、塗り替えることも考えた。しかし予算は限られているし、塗料を使えばホルムアルデヒトの問題も出る。最終的には遮光も考えて、安価な黒い布を一面に貼り付けた。結果的には「それっぽく」なり、後片付けも簡単剥がすだけ、となった。

イスは映画館用のものを持ち込むのでは面白くない。せいぜい20席ほどしか置けない小空間。だったらゆったり座れる質の高いものをということで、カフェ向きの1人掛け、2人掛けソファを用意した。メーカーの協力もあり、安価で仕入れられたことも嬉しい。

イスに段差をつけるのは困難だった。建築に明るいメンバーが設計図を書き、ホームセンターで木材を調達しては、連日深夜3時まで金づちトンカン。苦労はしたが、最も文化祭的要素の強い「楽しい困難」でもあった。

内装のスタンスは観客第一主義。外から音が漏れてこないよう防音カーテンを設置したり、暗がりの中で足元を照明で照らすなど細部に神を宿らせた。

一方で、照明をインテリア性の高いものにしたり、トイレにプラネタリウムを設置するなど、遊び心も忘れなかった。スタッフ自身も居心地の良い「知る人ぞ知る秘密基地」がモットーだった。

ここに「いわゆる映画館」でもない、かといって「ホームシアター」でもない、何とも言えない不思議な空間が誕生した。それは映画を観る者と観せる者との距離が近い、もっと言えば感動を「共有」できるようなスペースになっていた。

お客さんを招く環境は整った。


つづく。

17.急ピッチの準備2:機材編


映画鑑賞の環境を整える上で最大のポイントは「上映設備の質」だ。

シアターギミックでは、プロジェクターでの上映を選択した。フィルム上映を望む声は内外に大きかったが、今回は適さないという判断を下さざるを得なかった。

例えば16ミリ映写機だと、民間業者なら映写技師の人件費とセットになって高くつく。かといって西宮市が保有するものは営利目的だと借りられない。シアターギミックは入場1000円の有料イベントだ。

また、通常の映画館で用いられている35ミリ映写機があるが、こちらは論外。べらぼうに高価な機器であり、レンタル費だけで馬鹿にならない。閉館した映画館から譲り受けるチャンスもあったが運搬だけで相当難儀する。生じる騒音も大きく、フィルム交換用に2台を置くスペースもない。

プロジェクターという選択は、必然だった。

しかし幸運なことに、メーカーのスポンサードを受けた。業務用の、小空間では十分すぎる性能を持つプロジェクターを使えることとなった。

続いてスクリーン。天井の低さをカバーするため、壁一面に大きく設置した。今後の屋内上映会でも使えるよう、それなりのものを購入した。余りあるプロジェクターの性能を、うまく引き出していたように思う。

続いて音響設備。映画監督のスティーブン・スピルバーグは「映画の50%は映像、残りの50%は音楽だ」と言ったそうだが、やはり映画鑑賞に音質は重要。音量のみならず、音の指向性、透明度、耳心地のよさ。どれも抜かりは許されない。

これまた幸運なことに、アンプシステムをメーカーにスポンサードされることとなった。メンバーの人脈をフル活用した成果だが、それまでの上映実績が少なからず認められた結果のように思う。

そして最後にスピーカー。これが大問題だった。


つづく。

18.急ピッチの準備3:落とし穴編


つぶれた映画館が、そのまま眠っている。

関係者を通じ、僕らはそんな情報をかぎつけた。映写に使っていた機材や150席ほどの観客席まで残されている模様。しかも2館分。そしてオーナーの粋な計らいで、それらを無償で譲ってもいいというウソのような話が舞い込んできた。

まだシアターギミックの会場はおろか、概要も決まっておらず、具体的に何をいくつ頂戴するかは即答できなかったが、僕らはこの話に浮かれ気味に飛びついた。これが後にトラブルを引き起こす。

タダで頂けるとはいえ、それぞれが高価な機材。書面で契約を交わした方がいいのではと管理者に持ちかけたが、そこは気さくな方。「いいよいいよ、好きに持ってって」とのことだった。

その「緩い感じ」は、シネギミック以外にも向けられていた。映画館をカフェにリフォームし、運営する予定の業者だ。しかも運営に向けて建物の賃貸契約を済ませており、その過程で管理者の「機材を自由に使っていいよ」という言葉もあっただろう。

もらい手が、シネギミックとカフェ業者の2つになった。

タイミングが悪かった。話をもらってすぐに僕らが譲り受ければ問題なかったが、シアターギミックが本格化するのはその半年後。その間、カフェ業者は内装をプランニングし、映画館の音響設備をクラブイベントなどに使えるよう目論んでいた。

僕らは、自分たちが頂けるものと信じて疑わず、そもそも「競合」がいることさえ知らず、いつでも持ち運べるよう配線を切ったりしていた。そのまま半年が過ぎた。

シアターギミックの概要がほぼ固まった。この旧映画館からは、スピーカーなど様々なものを頂戴することにした。ところが現地を訪れると、すでにカフェへの改装が進んでいた。

不法侵入の扱いを受けた。

もちろん、管理者にはこちらのメンバーが会場入りする日時を連絡していた。何をどれだけ頂くかも伝えてある。しかしカフェ運営者には詳細が伝わっておらず、相手からは「突然やってきた泥棒猫」呼ばわりをされた。

モメた。

僕も理に適わないことは許せないタイプ。当日、現地入りできなかった僕は、電話口で相手側とモメた。「代表だったらこっち来い」と激昂され、後日、僕は現地に足を運ぶことになった。

相手の要求は、少し落ち着きを見せていた。とにかく片方のフロアにあったスピーカーだけは置いていき、配線を直してくれさえすれば後は目をつむる、というものだった。

しかし僕からすれば、頂く側の立場で何だが、そもそも寝耳に水の状況であり、管理者が仲裁してくれたわけでもなかった。あろうことか、相手からはシネギミックの活動自体を否定され、土下座まで要求された(そこはひらりマントで交わす僕)。

業務用スピーカーの配線を修復するのも困難で、たまたま専門的な知識のある知人にお願いできたから事なきを得たものの、もし直せなかったら損害賠償まで請求されていたのかと思うとゾっとする。

メンバー内にも代表に対する不信感が漂う。確かにモメ事を未然に防ぐのがリーダーの役目で、シアターギミックの開催すら危ぶまれていた「それどころではない日々」に落とし穴が生まれてしまったのは僕のミス。甘い話にはウラがある。

とはいえ、そんなこんなで残りのスピーカーはちゃっかりゲットし、シアターギミックでは大活躍してくれた。

モノに罪はない。愛された映画館で使われていたものを、愛着をもって活かしていきたい。そう心に誓った。


つづく。

19.急ピッチの準備4:宣伝編


イベントは、遅くとも1ヶ月前から告知すべきである。

しかしご存知の通り、すべてが急ピッチ。細部が決まらない限りは宣伝のしようがない。シアターギミックは、広報の面で大きく出遅れた。

12月に開催するという決定は、実はメンバーの総意ではなかった。延期の影響でミーティングの参加者が減り、コミュニケーションの機会を失っていたこともあるが、一番の理由は僕の「独断」だ。

年末というのは、1年の中でも非常に忙しい時期。本業が会社員というメンバーが多数を占め、そうでなくても何かと騒がしい師走。準備期間もほとんどない中で、しかも初めて経験する長丁場のイベント。「無理でしょ」と思うメンバーも少なくなかった。

しかし僕は、押し切った。

もう何十軒、探し歩いたか分からない会場探しに疲弊していた僕は、この機会を逃すとシアターギミック自体が中止に追い込まれる可能性を大いに感じ取っていた。「不動産」は水物、いつ借り手がつくかも分からない。契約期間が後になればなるほど「今から長期で借ります」という人に先を越されるリスクも高い。

メンバーに無理を強いることになるがとにかく開催に漕ぎつけようという考え方と、例え延期に延期を重ねようとも綿密な準備期間をもって確かなイベントにしようという考え方では、僕は前者を選択した。

助成金を使える期間は年度末(3月)までと残り少なく、延期しようにもあまり時間がない。他の会場候補のアテもなく、どうせまた同じようなことを繰り返すことは目に見えている。であれば多少無理をしてでも「実績をつくる」ことを僕は優先した。

嬉しいことに、メンバーはみんなついて来てくれた。そっぽを向くこともできただろうに、翌日の仕事を忘れて夜遅くまで準備に付き合ってくれた。

おかげで、宣伝ができる体制も整った。

新聞を初め、タウン誌など数社から取材を受けた。ラジオ出演も告知に一役買った。テレビの取材も入り、準備の様子から「愛のある視点」でシネギミックをとらえてくれた。タイミング的に、それぞれが発表されたのは開催直後となってしまったが、過去によく見られた「間違った報道」は今回、ひとつもなかった。

自前で用意したフライヤー、ホームページも活用した。イベントごとに趣向を凝らすのがシネギミックの長所であり、色鮮やかなそれは「訪れてみたい」と思わせるイメージ戦略に貢献していたように思う。

反省すべきは、繰り返しになるが「すべてが後手後手」であったこと。もう少し早く告知できていれば、動員数も変動していたかもしれない。


つづく。

20.シアターギミック開催


2005年12月2日。

密かに3年間の総決算として臨んだ1ヶ月だけの期間限定映画館「シアターギミック」が、いよいよ幕を開けた。

1年がかりで準備され、23日間もの間、一度も休館することなく運営することができた今回のプロジェクト。当時の詳しい様子は「開催レポート」に譲るが、とにかく無事にオープニングを迎えることができ、大きなトラブルもなく終えられたことを心から感謝したい。

正直に告白するが、僕はシアターギミックを「失敗」しても良いと思っていた。もちろん初めから「失敗しても良い」という緩んだ覚悟で臨んだわけではない。ただ、全力を出し尽くした結果、「失敗だった」と内外から評されたとしても、悔いだけは残したくないと思っていた。

慣れる頃には終わってる、とはよく言ったもので、終わってみると「完成された映画館」には程遠かった。僕も含めスタッフワークが行き当たりばったりで、お客さんの中には厳しい感想もあった。各ワークをマニュアル化し、書面での浸透を図ったが、映画館は「生き物」であり、机上と現場は違うことも痛感した。

僕自身、うまくリーダーシップを発揮することができなかった。トルシエ的な規律の徹底と、ジーコ的な自由度の解放。その狭間で揺れてしまい、期間中は会場の別室にこもりがちになってしまった。

自分たちでつくった念願の映画館なのに、居心地が悪かったというのは皮肉だ。

身体的にも僕は限界を迎えていた。「館長の休みの取り方」というものが分かっておらず、1日としてリフレッシュできた試しはなかった。もちろん本業をストップしての「賭け」であり、それなりの覚悟で臨んでいたが、肉体には嘘をつけなかった。「命の前借り」をしていた。

さらに、フィナーレまであと数日というところで交通事故を起こした。バイクによる自損事故だったから自分が負傷しただけで済んだものの、集中力が欠けていたことは否めない。張っていた「気」が負傷した箇所から漏れ出ていき、ついには発熱まで引き起こした。

ただ、それだけ充実し、やり甲斐を感じていた証拠だ。終わりが近づけば近づくほど「別れが惜しい」気分になっていた。愛着が湧いていたのである。

メンバーも「自分たちの映画館」という意識に溢れていたように思う。ようやく念願叶った「拠点」への喜びを、現地に足を運ぶという形で表現していた。

もちろん、細かいトラブルは発生していた。法的な手続きに不備があるのが判明したり、上映する作品が直前まで届かなかったり、映写や音響の技術的なミスも続発した。しかし、それらを通じ、僕たち自身が「成長」する機会を与えてもらったように思う。ありがたいことに、周囲は本当に温かかった。

最後の映画を上映し終え、スタッフとお客さんとで小さなパーティを開いた。遠方から駆けつけてくれた人や、期待を持ってシネギミックのイベントに初参加してくれた人もいた。この日に入籍した友人も参加してくれ、メモリアルな1日にしてくれた。

総括するにシアターギミックは、映画を「観せる者」としてのプロ意識には少し及ばなかったが、お客さんとの距離の近さを実現できたという意味では、地域に根付く意義のある映画館としての原形を見ることができたように思う。

スタッフとお客さんが、最後になぜか「記念写真」を撮影するという和やかな雰囲気が、それを物語っているように思えた。


つづく。

21.代表の引退


僕はシネギミックからの完全引退を決意した。

うまくいっているように見えた3年間の道のりだったが、僕なりに思うところもあった。

理由はひとつふたつではない。西宮にシネコンが建設されることになったのも無関係ではない。早くから折り込み済みだったとはいえ「震災後初、西宮唯一の映画館をつくる」ことにこだわった僕には軽くないニュースだった。

しかし引退の一番の大きな理由は、シネギミックにおける僕という人間の存在価値だ。

中田英寿になぞらえるのはおこがましいが、彼と同様、僕の存在価値は「メッセンジャーであること」だったように思う。ひとつの形を目指して目的や意義、理想を内外に繰り返し発信し続けることが僕の役割だった。

ひとつの形とはもちろん「西宮に映画館をつくること」だ。

だが、ある女性との出会いをきっかけに結成され、予想以上に拡大していったシネギミックという組織は、もはや僕だけのものではなくなっていた。ひとつのゴールを目指して集った20余名のメンバーの一部であり、彼らが紡ぎだす野外や屋内の「映画空間」を共有する人々の財産になっていた。

だから「西宮に映画館をつくる」のが僕自身であるかどうかは、この際、大きな問題ではない。

もちろん、僕という人間に「心を投資」してくださった方々のことを思えば、今でも胸が締め付けられる。彼らの気持ちを踏みにじったのではないか、裏切ったのではないか、という疑念にかられることもある。巻物に署名してくれた多くの方々にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

しかし、僕という人間がいるから成り立つ、という組織では発展性がない。僕がいなければ成り立たない、というシステムでは破綻は目に見えている。

僕は0を1にはできるが、1を10にはできない。生来の「立ち上げ屋」だ。「一寸先の未来」を楽しめる頃は良かったが、それなりの組織がそれなりの事業をする規模となると僕では不十分だ。

このままでは、僕も、シネギミックも、ダメになる。

発起人として「顔」であり続けた僕が、未来永劫、顔であり続ける必要はない。シネギミックというチーム自体が、それらが織り成す活動自体が「顔」にならなければいけない。

脱皮する時期なのだ。

シアターギミックというイベントは、失敗でもあり成功でもあった。「またやりたい」と思う人もいれば「もう懲り懲り」と思う人もいた。僕の中で見えてきたのは、次の3点であった。

・映画館をつくる道のりは、やや遠い
・しかし可能性はゼロじゃない
・ただ、今のままでは絶対にできない

先陣を切って走ってきたからこそ、自信を持って言える。そして僕という人間の居場所は、ここにはもうないということも。

今を変えなければならない、何かを変えなければならない。その宿題への取り組みは、もはや僕しかできないことではない。

シアターギミックは、確かに映画館だった。1ヶ月間だけだったけど、確かに西宮に存在した、震災後初の映画館だった。今の僕にできるのはもう、ここまでだ。

そして3年間、夢中で駆け抜け、かけがえのないものを得たと同時に行き詰まりを感じていた僕が用意したチームへのカンフル剤は「代表の引退」という小さくない宣言だった。


つづく。

22.ライター松岡厚志


「ウラギミックは5倍面白い」

そんなことを、よく口走っていた。

同じ活動を3年も続けていると、色んなことが見えてくる。色んな人ともつながっていく。諸事情が絡み、公表できない裏話は正直5倍面白かった。

例えば、属する組織に反する形でシネギミックに助け舟を出してくれた方々のファインプレーや、ここに書くのは野暮な泥臭い話など、様々なものがある。

でも、文字には出来なかった。

改めて、シネギミックを結成する以前から続く日記を読み返してみた。「ニュー・西宮・パラダイス」と題したインタビューあり、考察ありのルポルタージュは、水がはねるように活き活きとしていた。謎を解明したり、アイデアを頂戴したり、先人の話を聞いて「おおお」と自分が一番感動していた。

しかし、ノリだけで動いていた人間に、仲間が集まり、チームになり、やがて僕は「リーダー」になった。なっていた。その分、制約も増えた。

時代の流れで、日記はいつしかブログと呼ばれるようになった。真実を伝えたい性分なのに書きたいことが書けないイライラのせいか、後半はテンションも低く、組織内の話ばかり。外向けに見せての内向けメッセージも悪循環を引き起こし、打てど響かず誤解を招き、そしてまた書けない日々が続いた。

過去に僕は、こんなことを書いていた。

「何かコトを成し遂げようとするとき。まずは餅を描き、青写真を目に浮かべ、絵になる活動を続けていくことがゴールへの近道ではないかと思う」

僕はもう、餅を描けなくなっていた。

こんなことも書いていた。

「僕はライター(モノ書き)である。と同時に、火付けのライターになれたらいいと思っている。自分のリーダーシップ的素質はあまり信じていないのだけれど、僕の発案が皆さんを動かすことになれば、これほど喜ばしいことはない」

僕の役目は「ニュー・西宮・パラダイス」から「シネギミック」へと移行したとき、本質的にはすでに終わっていたのかもしれない。
 

つづく。

23.新体制の船出


「責任」と「覚悟」をメンバー全員に強いるのは無理があった。

シネギミックは会社ではない。平たく言えばサークルだ。本業ありきの「課外活動」として参加する者がほとんどだ。

それ自体は否定しない。フリーランスで働く僕のような、日々の活動にメインもサブもないような、自分だけが資本の人間とそうじゃない人とでは意識に差があって当然。生計をたてるため、家族を養うため、メンバーが本業を第一にするのは当たり前のことだ。

一方で、僕の中には寂しさも残る。ゆくゆくは会社や、あるいはNPO法人にまでシネギミックを格上げしたかった。現メンバーも、以後に入会してくるであろう人々にも、シネギミックに「転職したい」と思わせる体制づくりを望んでいた。

そのために「本気」になることは、最低条件だった。

ただ、全員に徹底を図ることはできなかった。

メンバーが「本気」じゃなかったかといえば、そんなことはない。温度差はあれど、それぞれがゴールに向かって心身を尽くしてくれた。

ひとつだけ問題だったのは、全員のベクトルが同じ方向を向いていなかったことだ。

何が何でも「映画館をつくる」という方向から目を背けなかった僕は、一本筋が通っていたと言えば聞こえはいいが、柔軟さに欠けていた。「映画館をつくらないのもアリじゃないか」という話に真剣に耳を傾けることはできなかった。

サークル的であるがゆえ、チーム内での楽しい雰囲気というのも必須だった。せっかく任意で参加しているのに、会社のような「厳しい感じ」ではプレッシャーだ。だから僕自身、シネギミック内では怒りを露にしたことは一度もない。ただ、律するところを律しきれなかったところは尾を引いた。「良い加減」と「いい加減」に線引きする能力と勇気が僕には欠けていた。

チーム運営の難しさを痛感した。雇用関係にないだけに、NPOは会社経営よりも難しい面がある、という言葉が身に染みる。

だから引退する、というのはまた違う。僕がいなくてもこのメンバーなら引き継いでくれる。魂を継承してくれる。そういう安心感を、この3年間で抱けたことが一番の理由だ。

新代表に就任した中村敦子は、新しい船出にこんなメッセージを発表した。

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会の趣旨として掲げていた「西宮に(常設の)映画館をつくる」という看板の塗り替えをしました。

でも、これから目指すものも映画館であることは変わりはありません。

なぜなら、常設でなくても、屋根がなくても、一日だけでもハッピーな映画と、素敵なまち西宮の風景があれば、どこでもみんなが喜んでもらえる映画館になりうることに気がついたのです。

わたしがいつも思っていることは「映画とは、みんなで見るもの」。

同じ場所でみんなで同じ映画を見て、楽しい感情を共有して、それが西宮の風景に溶け込むなんてすごく素敵なことだと思いませんか?

(一部抜粋)

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僕は、安心して引退できる。


つづく。

24.やり残したこと


「住むまちと、住みたいまちは、同じですか?」

シネギミックの活動は「まちづくり」であり「みちづくり」であった。「MOViEMENT!」をキーフレーズに、映画のチカラで街にムーブメントを起こすことを目指していた。

その集大成として3年間の思いをぶつけたシアターギミックを経て、今の僕に悔いはない。外からは「まだまだできたはず」と見られる節もあるだろうが、僕の中ではやり残したことはもうない。完全燃焼した。

ただ、もっと他に「やりたかったこと」はある。

例えば「特区の申請」。

シアターギミックを通じ、映画館をつくるということがいかに大変かを思い知った。法的な手続きは七面倒であるし、許認可事業ではないが既得権が横行する狭い世界であることも分かった。そこに風穴を開けるべく、映画館をつくりやすいシステムを「構造改革特区」という形で実現したかった。しかし時期尚早だった。

「収益事業の確立」も詰めていただけに惜しい。

会費収入といくばくのチケット収入では年間を通じた事業を行えないと痛感し、収益の柱を確保する計画を密かに立てていた。シネギミックのグループ企業に位置づけた「ゼニギミック」という組織だ。「銭」のための事業と割り切った、この冗談のような名前の会社の起業は、僕の中では規定路線だった。しかしいかんせん、現実味がなかった。

Web2.0的な情報発信サイトの構築も頓挫した。

代表の活動日記だけでなく、スタッフもメッセージを発信し、それを受けて読者の側も意見を交わす。それらが知識と知恵のデータベースとなり、映画や映画館、上映会というものに実践的にアプローチできるポータルのようなサイトを目指していた。しかし実務で精一杯だったこともあり、見送らざるを得なかった。

シネギミックとは別名義で、個人的にやれというのなら、代表職を離れた今なら容易いかもしれない。ただ、シネギミックという看板をもう名乗らないと決めた僕には「過去にすがる」気がして今は気乗りがしない。

それよりも、新しいシネギミックを影で見守る方が性に合っている。

シネギミックは「愛される映画館」をつくろうとしていた。「愛される存在」であろうとした。その心意気だけは、次代のメンバーに継承してほしいと思う。

そして「いつか」でいいから、自分たちで映画館をつくれる日がくると、信じていてほしい。それだけが、新生シネギミックへのメッセージだ。


つづく。

25.若者・よそ者・バカ者


個人的に「若者・よそ者・バカ者」と呼ばれたことがある。

地域活動に欠かせない「行動力のある若さ」「外から俯瞰できる視点」「突飛な発想」の3点を兼ね備えた珍しいタイプであると評された。

自分の中では「たまたま若かっただけ」「たまたま西宮市に流れ着いただけ」「本当にバカだっただけ」だと思っているが、それでも自信につながったことは否定しない。

ただ、外部から誤解を受けることも多かった。「西宮に映画館をつくろう」というキャッチーなスローガンのおかげで、実態を把握しないまま否定されることも少なくなかったのである。

例えば知人を通じて紹介された人に、初対面で説教を食らったことがある。

西宮に文化は根付かない。日本を飛び出せ、世界に出ろ。オレがお前くらいの歳の頃は世界に行っていた。もっと大きなことをやれ。主旨はそういう内容だった。自慢の品を根付かせようと西宮市でお店を営む人から言われたのはさっぱり理解できなかったが「若さをもっと別のやり方で活かせ」というメッセージだったように思う。

また、僕らの活動を快く思っていない団体からは脅しめいた言葉をもらった。

そういう活動は認めていない。この先うまくやれるかどうかは分からないぞ。頭ごなしに突きつけてきた。ルールを変えようとすると、旧態依然な人たちには「よそ者(=アウトサイダー)」の印象を与えてしまう。仮に救世主になったとしても、だ。

極めつけは、西宮出身であるという人に「オレらの税金を無駄遣いするな」と言われたこと。

確かに助成金はもらっていたが、厳密に言えば兵庫県からもらっていたのであり、西宮市からもらったことはない。何より「無駄遣い」しているつもりは毛頭ない。ときには多くを犠牲にしてまで自転車操業で「西宮市に映画館が必要であること」を訴え続けてきたつもり。しかし単なる「バカ者」に見られてしまった。

市民活動は、ときとして誤解されやすいものだ。

僕やシネギミックという団体は、つくづく最初から最後までアウトサイダーだった。全国のコミュニティ・シネマ関係者が集う全国大会に出席した僕は、それを肌で感じた。

映画のことに携わっているのに、起点が映画にないという全国的にも珍しい団体。「だからこそ」の可能性も残されていたが、それはそれ。引退した身である以上、そうした希望は次代のシネギミックや後発団体に委ねたい。

ひとたびアクションを起こせば「若者・よそ者・バカ者」と誉められることもある。逆に、同じ言葉でけなされることもあるだろう。しかし僕はこの3年間を通じて、ひとつだけ分かったことがある。

「神様は、頑張る人を裏切らない」

今後、僕たちのような団体が全国に多発することを、心から願っている。


つづく。

26.支援者にありがとう


それにしても、これほど恵まれた団体を、僕は知らない。

もう数え切れないほど多くの人々に支えられ、今日までやってきた。誤解を受けた経験の何倍以上もの喜びがあった。

僕たちの上映会に足を運んでくれたお客さんはもちろん、年間通じて応援してくれた会員さん、西宮市民、西宮市役所の方々、常に気にかけてくれ適宜サポートしてくれた人々、実際に援助してくれた多くのスポンサー企業。

心からありがとうを言いたい。

そう言えば神戸は長田商店街の震災復興を追ったテレビのドキュメンタリーで、個人商店を営んでいた奥さんがこんなことを言っていた。

「下を向いていたら誰も声をかけてくれない。どんなに辛くても前向きに、元気を出さなきゃ、誰も応援してくれないから」

少なくとも僕らには「元気」があった。

お世話になった方々にランクをつけることはできないが、印象的だった人を1人挙げるとすれば、セイコーエプソン株式会社の波場さんだろう。

波場さんは、初めてシネギミックにアプローチを試みた「外部の人間」だった。全国の新聞の地方欄に目を通し、まだ一度しか上映会をしていないひよっこのシネギミックに「可能性」を感じて連絡をしてこられた。

初めは「企業の人間」ということで、僕も慎重だった。個人的に会社に利用された苦い経験もあり、自分だけならまだしも仲間を抱える組織の代表としては、僕らを路頭に迷わせるような話はすんなり受け入れられないと、予防線を張っていた。

しかし何度も接する度に「この人は会社員の枠を越えて僕らを応援してくれている」という信頼感を寄せるまでになった。

形としてはプロジェクター機器の提供というスポンサードを受ける「企業と任意団体」の関係だったが、常に気にかけてくれた全国視野でのアドバイス、そして心の奥底に響く「頑張れ」の気持ちに、僕は大きく支えられた。

その波場さんにシネギミックからの引退を告げたときの、絶句された表情は今でも忘れられない。己のふがいなさ、期待に応えられなかった申し訳なさ、その他いろんな気持ちが一気に溢れ出た。シネギミックのことで感情を抑え切れなかったのは、後にも先にもこのときだけだ。

それでも波場さんは、こう言ってくれた。

「残念ではあるけれど、シネギミックの代表じゃなくなっても、君のことはずっと応援します」

シネギミックに携わって、本当に良かった。


つづく。

27.濃密な3年間


濃かった。

この3年間は、ミルクに砂糖を入れたくらい濃密だった。

映写技師の資格を取得したこともあった。
ラジオに定期的に出演し、CMを作ったこともあった。
テレビに出演し、街中で声をかけられることもあった。
テーマソングを作り、着メロを配信したこともあった。
造語をたくさん作ったこともあった。
巻物に署名を募り六本木ヒルズで行列を作ったこともあった。
女子大のゼミで講演したこともあった。
イベントにパネリストとしてゲスト出演したこともあった。
大学の特別授業でNPOの何たるかを学んだこともあった。
西宮市の公園立ち上げと活用に携わったこともあった。
憧れの糸井重里に応援メッセージをもらったこともあった。
母校の後輩マナカナに勧誘のビラを手渡したこともあった。

フリマで健気に上映資金を稼いだこともあった。
初めての前説は頭が真っ白で客から「頑張れ」と励まされた。
イベントごとにオリジナルTシャツを作ったこともあった。
予約のFAXが1日中鳴り止まないこともあった。
初のリハーサルは嬉しすぎて芝の上で転げまわった
上映会の前日は決まって「客がゼロ」の悪夢にうなされた。
企画書を練り、何度も企業にプレゼンをしに行った。
イベントの度にDM発送の手配をせっせと行った。
頓挫したけど、シネギミック研究所を立ち上げたこともあった。
淡路島に合宿に行ったこともあった。
神社や商店街の夏祭り、子ども会で上映協力したこともあった。
ドキュメンタリーの題材にもなった。

メンバー構成は初め女子ばかりだったのに、後半はメガネ男子ばかりになった。
新しく仲間になった人もいれば、去った人もいた。
誕生日をパイ投げでお祝いされたこともあった。
シネギミックに夢中になるあまり当時のカノジョをないがしろにしてしまい、皿を叩き割られたこともあった。
街の電気屋さんがふとシネギミックのことを知っていたこともあった。
会報を送るのに切手を貼り忘れて叱られたこともあった。
会ったこともないのにネットでつながり応援してくれて、貴重な資料を送ってくれた人もいた。

色んな機関とも、接点を持った。

省庁、警察、消防、県庁、市役所、議員、マスコミ、大企業、地元企業、商工会、子ども会……。

 

今、改めて思う。

これらは本当に、たった3年の間の出来事だったのだろうか。


つづく。

28.最後の言葉


先日、シネギミックのメンバーが結婚した。

シネギミックがホスト役を務め、2次会を取り仕切った。僕は翌日の引越しを控えていて、それまでの準備に大きく携わることはできなかったが、2次会は本当に素敵だった。

今後も上映会で使えるようにと頑張って購入した高価なプロジェクターで、新郎新婦の半生をスライドショーした。その内容がとても面白く、遊び心にあふれていた。

シネギミックというチームを3年間引っ張ってきて、最後まで忘れなかったのは「遊び心」だ。

スタッフ自身が楽しまなくては、お客さんを迎えることなどできない。その気持ちだけは、全メンバーに一貫していた。だから仲間と接していて心地よく、あれほど笑い合えたのだと思う。

2次会の終了後、シネギミックのメンバーだけで3次会に行くことになった。

僕は、参加を断った。

最後にみんなと握手を交わした時点で、僕の中では一区切りついていた。ひとつひとつのシェイクハンドに「これからのシネギミックを頼む」というメッセージを込めた。口下手な僕ができる、最後の触れ合いだった。

仲間を乗せたタクシーが、目の前を通り過ぎる。

これまで夢中で駆け抜けてきた思い出が走馬灯のように甦り、えもいわれぬ気持ちが溢れ出てきた。歩き、立ち止まり、思い出のアルバムを頭の中で開いては、1ページずつ閉じていった。

神戸の夜空は美しく、風は温かかった。

僕の3年間は、幕を閉じた。

 

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僕は今、東京にいる。これまでの経験を飛躍させるチャンスを求めて、ここにいる。そして今、改めて3年間を振り返り、ここに言葉をつづっている。

糸井重里から特別にもらったメッセージを思い出す。

「どこまで行けるのか、その距離を計るためだけでも、若いときには走るほうがいい」

まだ若いかもしれないし、もう若くないかもしれない。いずれにしても、この言葉は僕の中で一生の記念碑だ。僕を夢中で走らせてくれたこの言葉、そして糸井氏に心から感謝したい。

 

「最後に、誰に、何を伝えたいですか?」

僕の中のインタビュアーが、僕に語りかけてくる。あの人にも、この人にも、伝えたい気持ちは山ほどある。

でも、最後と言うのなら、僕はこれまで長きに渡って苦楽を共にしてくれた仲間たちに、この言葉を伝えたい。

心から、ありがとう。


おわり。

2006.07.21
松岡厚志


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